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●●●● 略歴

1926年 東京浅草に生まれる
1940年 4代目、小金井芦州に入門、
小金井若州を名乗る
5代目、西尾麟慶を襲名、真打ち昇進
1964年 六代目、小金井芦州を襲名
1985年 文化庁主催、芸術祭賞受賞
1997年 無形文化財認定
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●●●● 【芦州特集記事】
基本は義理人情 (切り抜きのため引用文献不明)
ウイークデーの昼間に開かれる講談会の客席を見れば、講談を取り券く環境の厳しさを実感できる。お年寄りが数人というのもざらである。
戦後民主主義が、かつては大衆芸能の王座にあつた講談を危機に追い込んだ、と記者は思うのである。忠君愛国、義理人情が講談の本質である限り、このプラスチックのように平板な社会では、上滑りするに決まっている。
そんな思いを抱きながら、十月二十六日、東京・日本橋のお江戸日本橋亭へ足を運んだ。小金井芦州長講−席の会である。
客席を見て驚いた。畳敷きの定員百人の会場にぎっしり。百二十人は入っている。若い人も多い。カメラの服部良巳さんは、「すみませんね」と言いながら、最前列のわずかな隙間に撮影場所を確保して芦州師匠の出を待った。
トリで登場した師匠に客席から「待ってました」の声がかかる。丁寧に頭を下げてから師匠は「巷説長門鍔」をたっぷり聞かせた。
前名の西尾麟慶時代から侠客物に凄みを示してきた芦州師匠も七十三歳。迫力で押し通す代わりに、肩のカを抜いてきめの細かい演出でじっくり聞かせる技術は、我々が忘れかけた「年季」という言葉を思い起こさせるのであった。
高座のあと、楽屋へ若い女性二人が「先生、お疲れきまでした」とあいさつにきた。師匠が講談普及のため開いている芦州塾の塾生だという。この時ばかりは師匠の厳しい表情が少し和らいだ。
小屋を出た師匠と記者は、当日の出演者と塾生に見送られ、師匠行きつけの上野広小路のトンカツ屋に向かった。
師匠は昭和十七年に四代目芦州に入門、ニ十四年に真打ちに昇進して四代目西尾麟慶を襲名した。当時から玄人受けのする本格派で大成を約束された人だった。四十年、六代目芦州を襲名し、現在は講談協会の会長を努め、講釈士として、初めて無形文化材に認定された。
「昔は真打ち、ニツ目前座の下に空板ってのがあってね。空板ってのは客席が空のときに−席やるんだが、お客が一人でも入ってくると引っ込まなきゃいけない。早く一席を終わりまでやりたいと思ったもんでした。そうそう、私の師匠の家の前に子爵の家があったんですよ。私は家の前で大きな声を出して練習をしていたんだが、うるさかったんでしょうね、子爵がやってきて『君は何者だ』と聞くんだ。私が『講釈だ』と答えると、向こうは『侯爵様ですか、失礼しました』と退散しましてね。でもこの−件で、子爵は後々まで私を贔屓してくれたんですよ。この方は、女優の河内桃子さんのお父さん」
酎ハイを飲みながら語る講談の歴史、修行時代の話、芸談は、蘊蓄に富み、さながら講談のようだった。
「現在は講談にとっては難しい時代ですね」
「いいや、もっとも難しかったのは戦争に負けた直後。何かと言えばGHQで、講談でやっちゃいけない十力条ってのがあった。第−に仇討ち、それから心中、身売りなど、とにかく十力条だった。それに反したら沖縄で二年の重労働だって脅かすんだ」
「師匠は守ったんですか」
「守るもんか。ニ度つかまった。芸人としてお客にうけたいからやっちゃうんですよ。でも運悪くスパイがいた」
「沖縄へは」
「GHQに呼び出されて説諭ですんだ」
師匠は実に楽しそうに当時を回顧された。
「ところでそのGHQの方針に治った教育を受けて育った人間が、忠君愛国などを理解できるんでしょうか」
「悲観はしていないよ。年齢は関係ないんだ。若い人でも日本人の美しい心を理解できる人はいくらでもいる。それが証拠に、私のやっている芦州塾には若い人がたくさんいます」
師匠は注文したカキフライに全く手をつけず、次々と話題を繰り出してくる。
「カキフライ、冷えちゃいましたね」
「いいんだ。包んでもらつて持って帰るから」
「ところで、若い講釈師が、現代をテーマにした新作に取り組んでいますが」
「きちんと芯があればいいと思う。芯がなけりゃ感動を与えないしその場限りで先に残らない」
「師匠のおっしやる芯とは何ですか」
「そりゃ決まってる。義理人情さ」
そう言って師匠は、酎ハイをグイと飲み干したのであった。
●●●● 文 本誌・桑原 聡